七サバ詣で

横浜市藤沢市のあいだを流れる境川の両岸に、サバ神社という変わった名を持つ社が点在しています。鯖・佐波・左馬・左婆と漢字表記はまちまちですが、藤沢市横浜市泉区・同瀬谷区大和市などにわたって十数座の所在が確認されています。柳田國男はその著『石神問答』のなかでサバ神社を取り上げ、境界神もしくは障礙神としての性格を見出しています。

そもそも境川とは、相模國の旧鎌倉郡高座郡の境を流れる川であることに由来する名称です。かつてこの川には橋をかけなかったとか、両岸の村落どうしで石合戦をしたとかいう話を聞いたことがあります。高座はもとタカクラと訓じたようで、実際にこの地域には高倉という地名も残っています。タカクラは高句麗との関係を想起させる響きです。あるいは、古代、朝鮮半島から渡来した人々の入植地であったのかもしれません。ことほどさように境川には、歴史のなかの境界性が幾重にも重層しているように思われます。また、境川の境界性はこの世とあの世を画するという性格も持つようです。私は十数年ほど前にこの川に卒塔婆が流れているのを見たことがあります。

境川は、古来たびたび氾濫を繰り返してきた暴れ川としても知られます。氾濫のたびに川筋が変わり、現在の境川の両岸に共通の地名が残っているのもその痕跡といってよいでしょう。河川の氾濫は一方で肥沃な土壌をもたらす効能もありますが、氾濫の後に疫病をもたらしたりもしたと思われます。障礙神としてのサバ神社に防疫の霊能があるのも、おそらくそうしたこの地域の特性によるものでしょう。

ところで悪疫退散の霊験あらたかな神様と言えば、八坂社・天王社などが真っ先に浮かびますが、祭神はスサノオとされることが多いようです。古事記に描かれるスサノオの行状は、乱暴狼藉の限りを尽くす共同体秩序の侵犯者にほかなりません。その悪のパワーをもって、共同体の成員にたたりをなす悪疫をうちまかそうというのですから、私たちの祖先の信仰というものは実におもしろいかぎりです。悪に強いものは善にもつよいとでも言うのでしょうか。体制外の力でもって危機を乗り切ろうとするしたたかさが見て取れます。暴力=ゲバルトの両義性なんてテーマを論じてみたくもなります。

サバ神社のなかには、源義朝を祀るものがいくつかあります。これはおそらくサバ=左馬の連想が、左馬頭であった義朝を思い起こさせるからかと思いますが、平治の乱で悲劇的な最期を遂げる義朝は、関東の地で勢力を蓄えるにあたって荘園への濫行をかなり働いていたらしいので、やはり彼にも侵犯のエネルギーをもつイメージが付きまとっていたのでしょう。ところで、不思議なことに泉区のサバ神社は、義朝のご先祖にあたる源満仲を祭神としています。その理由はつかみかねています。幸若舞曲「満仲」などの芸能と何らかの関係があると面白いのですが……。

話は飛びますが、このコロナ禍の最中に、靖国神社にお参りした政治家がいるということを耳にしましたけれど、あれはダメですね。賊軍を祀らない靖国神社に悪のパワーは期待できないでしょう。防疫の霊験を同神社が公言しているのか、どうか、定かではありませんが、私たちのご先祖さまの信仰に忠実に考える限り、どうもこれもお門違いのパフォーマンスだったようです。アベノマスクと同じですね。

閑話休題(それはさておき)

サバ神社に話を戻すと、昔からこの地域に、はやり病除けの「七サバまいり」という風習がありました。疫病が流行すると七つのサバ神社にお参りして、厄除けを願うのです。十数座のサバ神社のうちどの七つを選ぶかは諸説あるようですが、境川の右岸・左岸の地域でそれぞれ決まっていたのかもしれません。できるだけ近くにある神社に足を運んだというのが実状だったのではないでしょうか。

とまあ、ずいぶん話が長くなりましたが、私もこの5月27日、「七サバまいり」にチャレンジしてみました。移動手段はわが「健脚」。17キロほどの行程でした。境川をまたいで右往左往しながら七座を巡り、コロナ終息と孫たちの健康を祈ってまいりました。そのご報告はまた稿を改めて……。