1950年6月25日朝鮮戦争勃発

 

1950年6月25日未明、朝鮮民主主義人民共和国軍(以後共和国軍)が38度線を越え南進を開始、これにより3年1か月に及ぶ朝鮮戦争の火ぶたが切って落とされた。大韓民国軍(以後韓国軍)に比して強大な軍事力を有する共和国軍は、「南朝鮮の解放と祖国統一」を標榜し、瞬くうちに釜山橋頭堡まで韓国軍を追い詰めた。

しかし、9月15日、国連軍総司令官マッカーサーの指揮による仁川上陸作戦で戦況は一変、国連軍はソウルを奪還し、兵站線を断たれた共和国軍は敗走を余儀なくされた。やがて国連軍は38度線を越えて北上し、元山、平壌を占領、中朝国境の鴨緑江に迫る勢いを見せ、李承晩大統領が統一政策を追求する可能性さえ浮上した。

だが11月、戦況は、中国人民志願軍(以後中共軍)の参戦を以って再び反転する。中共軍の援助に力を得た共和国軍は、撤退する国連軍を追って、再び38度線を越え南進した。制空権を持つ国連軍が、空中攻撃で共産軍の補給路を阻み、攻勢に出ることで、戦況は膠着状態へ陥った。

この間、原爆の使用も辞さずと強硬姿勢を取るマッカーサーと、休戦交渉をも視野に入れ始めたトルーマン大統領との間の摩擦が表面化し、マッカーサー解任を経て、休戦交渉が始まったが、軍事境界線の策定と捕虜送還問題で難航、アイゼンハワー大統領の誕生とスターリンの死を経て、1953年7月27日、共和国軍最高司令官金日成、中国人民志願軍司令官彭徳懐、国連軍総司令官クラークが署名し、ようやく休戦協定が成立した。李承晩は署名を拒否した。

南北朝鮮全域を戦場としたこの戦争により、共和国も韓国も甚大な物的・人的損失を被った。また、戦争の結果、南北両体制の政治的・イデオロギー的硬直化が進み、冷戦構造が深化した。離散家族など現在まで継続する問題も多い。

在日朝鮮人・韓国人社会にも、この戦争は濃い影を落とし、在日義勇兵や、吹田・枚方闘争など戦争阻止のための闘いも組織された。

国連軍の兵站基地として機能した日本もまた、元山などでの掃海作業に加わった日本特別掃海隊の存在も含め、この戦争に深くかかわった。

かつて植民地として支配した隣国での熾烈な戦争を尻目に、平和憲法を手にし、独立を謳歌する日本は、「戦争特需」によって経済復興の礎を築くことに成功した。戦後日本のありようを決定したこの歴史のアイロニーの意味を、戦争勃発から70年目に当たる今日まで、日本人は噛みしめることがあっただろうか。