杜門不出。時間にだけは恵まれて、読書三昧の日々。日頃の積読の罪滅ぼしのようにひたすら本を読む。古書店古書市で見つけてきたかけがえのない──と自分だけは思っている──本たちである。

人との出会いは削減されたが、その分、いやそれ以上に数多くの言葉と出会う。どうもそれが性に合っている。付箋を施して、えにしのありそうな言葉に挨拶する。ほう、こんな言葉があったのかと、頷いたり首を傾げたりしながら、人知れずほくそ笑むこともある。向こうの方でこちらを気に入ってくれるかどうかは沙汰の限りではない。それでもこちらには昵懇の間柄の言葉が増えていくのが喜ばしい。

しかしなかには、心の居住まいを正せとばかりに、厳しいまなざしを送ってくれる言葉もある。気づきと反省と認識を迫る言葉とでも言おうか。

先日読み終えた森崎和江の『慶州は母の呼び声』のなかにあった一節……。

 

「あの生徒たちは、ひとりでものを思っている時も日本語を使っているだろう」

わたしは大声をあげて泣き出した。父が目がしらをおさえた。わたしの泣き声はなかなかおさまらなかった。

「もう、よし」

父が叱った。

 

 「わたし」は著者本人。「父」は植民地朝鮮で教師として奉職し、請われて校長を務めもした。彼が教育者として良心的であり、またそうあろうとしたことは、当局の不興を買って事実上の左遷を味わったことでも知れる。けれど、身もふたもない言い方をしてしまえば、それでも植民地支配の一端を担う位置にあったことは動かしがたい歴史的事実であった。

 統治機構の瓦解によって、負わされ続けていたものを下ろすことはできただろう。しかし、引き揚げて距離を置いたときに見えてくる植民地教育の罪深さ、とりわけ母国語に換えて日本語とそれによる生活感情、思考の様式などを身につけさせてしまったことの惨酷さ。その場に立っていた自分から逃げ切れない思いを如何ともしがたい……。

 戦後の日本で、この「父」の感情は一切省みられることはなかった。「わたし」の涙は、戦後社会の片隅に置き去りにされている感情への絶望に近い悲しみだ。「もう、よし」と叱るしかない「父」の孤独な実存。

 私たちの戦前への「反省」が儀礼化されて何か肝心なものが欠けているように感じられ、その欠けている隙間を反省とは無縁の意図が埋めてしまうのも、この感情の欠落の故である。他民族の言葉を奪い取ってしまったことへの戦きがほんの少しでもあれば、失われた言葉を取り戻そうとするひとつひとつの努力に敬意を覚えこそすれ、民族教育を抑え込もうとする愚行を許すことなどないはずである。国家や国民の枠組みをはるかに超えてしまったコロナ禍に対し無惨なまでに無力な日本社会は、愚行を許し続けた無自覚さのなれの果ての姿に見える。

 私は飛躍しすぎているだろうか? 私たちが置き去りにしてきたものによって、逆に置き去りにされつつある日本社会という自画像は的外れだろうか? 私はそうは思わない。近代化も、富国強兵のスローガンも、高度経済成長も、新自由主義も、植民地支配に依存し犠牲の構造を正当化するイデオローギーを引っ提げて推し進められた。民衆もまたその参加者であった。挫折を受け止めて反省する好機は処々にあったはずだ。だがそれをしなかった。犠牲の構造を見ようとせず、反省すべき対象を他者として見出すことができなかったからだ。

 「父」の、歯噛みするような思いを感じ取り、共有し社会化するすべはまだあるだろうか? 病膏肓に入るとでも形容するしかない私たちの足元は今、絶望的な状況に見える。それでもまだ可能性を云々できるとすれば、戦後の日本が後生大事に抱え込んできた国民国家主義をも溶解させつつあるコロナ禍の「暴力性」を契機にするしかないのだろうか。

答えを見つけたい。