『海の底から』

大作『火山島』の続編、正しくは続々編か。舞台は日本。『火山島』全7巻の結末を受けて、物語が始まる……いや、始まらない。物語は始まらない。なぜ、始まらないのか? 主人公不在のせいだ。主人公李芳根の不在。『火山島』全編の主人公であった李芳根の自死が『海の底から』の起点であった。

李芳根とは誰か?解放前、抗日闘争に身を投じた筋金入りの闘士であり、解放後は一転、自室のソファにじっと腰をおろし済州島の動乱を透徹した虚無の視線で凝視しつつも、4・3蜂起崩壊後の虐殺からの生命の救抜を全力で支えようとする人物。オブローモフをすら思わせる彼の虚無が、生への愛に支えられた行為につながる……いや、そうではない。彼は殺人に手を染める。裏切り者、権力側の陰謀者を殺す。殺すことで彼らによる大量殺戮の責任を問い、さらなる殺戮をとどめようとする。これは人が生きることへのこだわり、つまりはやはり愛なのか? それでは、彼の自死の意味は?

際限のない問いの連鎖のなかに、李芳根の不在がある。彼の不在が無限に問われる。南承之が、韓大洋が、李有媛が、それぞれの対話のなかで問いを続ける。李芳根はなぜ死んだのか。不在を問うことで、彼らの心がつながる。現前する李芳根の不在。物語の始まらない所以だ。

「死者は生者のなかに生きる」。生前の李芳根の言葉。この作品のテーマかもしれない。あるいは金石範文学の……。あたかも主題言語のごとくに問い続けられる李芳根の不在。不在という実在。李芳根の自死の意味を、解けない方程式を、担い続ける生者たち。死者が生者のなかに生きるということ、死者を担うことで生者が生者たりうるということ。

しかし登場人物たちは膠着した関係のなかにある。死の一歩手前で李芳根の手によって救い出された南承之。「豚になっても生きろ」と遺言のように託された言葉を、密航した日本で抱きかかえるようにして暮らす日々。背中に刻まれた拷問の跡。その傷跡に涙を流し、彼に情愛を寄せる安幸子との関係。安幸子は『罪と罰』のソーニャだったのだろうか。奈落から逃れた南承之に生きることを肯定させたのは安幸子ではなかったか。そう読むのは果たして的外れか。

「日本に行って有媛に会え」。李芳根から南承之に託されたもうひとつの言葉。李芳根の妹で彼の強い影響下にありながらも自立した存在の李有媛。一旦はパルチザンへの参加を目指すが、旧家の因習による婚姻を兄の尽力で逃れ、現在は音楽学生として日本留学中。その有媛に会え、とは。

李芳根の自死の日、李有媛と南承之は同時に夢を見る。李芳根の死を暗示する、二つに分かたれたひとつの夢。ふたつがひとつになる夢。李有媛と南承之が会うことで、李芳根の死が現前するのだ。死者が生者のなかに生きる。ふたりが語り合うことで徐々にくっきりと李芳根の不在の意味がその輪郭を現す。

李有媛は、南承之にとっての有媛は、もしそういってよければ、思想として存在する。幾たびか李有媛と会うことになる南承之だが、彼は有媛の身体性の前にたじろぐ。李有媛は、そのオッパ、李芳根の思想をともに委ねられた存在としてあるのだ。少なくともこの日本の地では……。有媛は理念化されてしかるべきなのだ。しかし、思想とは何か。それが経験世界にある自分を生かしてくれるものである以上、南承之のたじろぎは、それが有媛への敬愛の表れであるゆえに、思想を思想たらしめる一歩前の地点に彼自身を留め続ける。

だが、南承之が踏み出すべき一歩とは何か。有媛への、有媛との感情を成就させることか。そうではない。幸子とのあいだに取り交わされた男女の情は、有媛には向かわない。向かい得ない。踏み出すべき一歩は、夢を、二つに割れた夢をどう合わせるか、ということである。どう……? どうやって……? 答えはわからない。わからないが、それが李芳根を自らのうちに生かすことでなければならないことだけははっきりしている。そして、それを有媛に向かって語りうるものとし、また語らなければならないということも。

はっきりしているものが見つからないというジレンマの中に立ち尽くす南承之。物語はまだ始まらない。

韓大洋は、済州島の李芳根の自死の現場、山泉壇を訪れ、いち早くその死の意味を体感する。漢拏山の山霊への供犠。かつてシンガポールチャンギ刑務所に戦犯として服役、「奇跡の生還」をはたした韓大洋は、李芳根の遺志を受け、済州島パルチザンの島外脱出の仕事を続ける。それが彼の「革命」형명である。李有媛も南承之も韓大洋の舟で日本に渡った。

やがて、南承之に韓大洋からミッションが託される。対馬島대마도へ行き、密航者二人を迎える。死線を越えた元パルチザン若い女性二人を。金石範の文学作品で一度ならず繰り返されたモチーフである。列車で大阪から博多、博多から対馬厳原への船旅。南承之自身もまた死の淵を逃れた道筋を逆にたどる旅。

南承之が「行為」を、踏み出すべき一歩を見出す。単に韓大洋への手助けというのでなく、それは李芳根の思想に自分をつなげることのできる確かな「行為」なのだ。この「行為」においては、もはや南承之が「主人公」でなければならない。主題を胚胎した行為者。主人公を得て、物語が動き始める。文体が変わる。

あえて断章化され無機的ですらあった言葉。渦巻くように浮遊して、読者の思い入れを回避するように書かれていた言葉が変わる。密航者と南承之が息をひそめて一夜を過ごした小屋での闇と光の交錯。玄界灘に投じられる椿の花の、遠ざかる船から見る鮮やかな色彩。南承之の視点が過たない描写の源泉となっている。読者も、南承之の視線に意識を寄り添わせ、この作品の最後の旅程を共にすることができるのだ。

帰路、いや女性二人にはもはや引き返すことのできない往路だが、その行きつく先は大阪대방の猪飼野である。南承之の母어머니が待つ街へ。済州島からのはるかな旅路。生還の旅。

 アイゴ、よくぞ来たものだ。生きてよくぞやって来たよ。アイゴ、生きました、生きました、生きのびました、オモニ!

 母と正恵が抱擁し、正恵が母の胸に子どものように顔を埋めて泣き出した。康娟珠と茉順も抱き合っていた。よく来られました、よくぞ来られました。頬を合わすように、そして合わせて泣いていた。

 南承之は呆然として軀がなかば宙に浮いたような感じでその場に突っ立ていた。

 ありがたい涙が止まりません。チェジュでは悲しみも喜びも、そのような場所も時間もありません。ただ胸に手を当ててそっと息を確かめるのが、生きていることです。生きているから、涙が出る。こうして生きているから涙が出るんだよ。

 ヨンジュは泣いているのか?洟をすすっただけ・・・・・・。そう、ヨンジュがどれだけ強い女か。砂漠のような悲しみ。そう、砂漠のような心に涙があるか。私たちの涙は凍りついて出てこないでしょう。ヨンジュもジョンへも泣いている。これがオアシスの涙か。アイゴ、よくぞ生きて来たものだ。生きてよくぞやって来た。泣け、泣きなさい。涙が止まるまで泣くがよい。泣くだけ泣け。泣けないときまで泣け。

 この長編の結末部分。もはや、言葉は、しゃくりあげるような嗚咽とあふれる涙と共に、誰の言葉であるとも分かたれることなく、南承之の心をも包み込んだひとつの声として響いてくる。その声のかなたに、玄界灘に投じられた鎮魂の椿の花の色がくっきりと見える。「死者は生者のなかに生きる」。