尹東柱の作品

尹東柱の作品

 

「清怨としか言いようがない詩情を流露してやまなかった非命の民族詩人」と尹東柱を評したのは、在日朝鮮人の詩人金時鐘である(岩波文庫 金時鐘編・訳『尹東柱詩集 空と風と星と詩』解説に代えて 以下引用する詩は同書による)。その「清怨」と言う二文字に、日本による植民地支配の下に生い立った瑞々しい感性の抱かねばならなかった心情のすべてが込められているように思う。

 

順伊が旅立っていくという朝 言いようのない思いで牡丹雪が舞い、悲しみのように窓の外に広げられた おぼろな地図の上をなおもおおう。部屋のなかを見廻してみても 誰もいない。壁と天井がいやに白い。部屋の中までも雪が降るのだろうか、ほんとうにお前は失くした歴史のように ふらりと行ってしまったのか。発っていくまえに言っておくことがあったものを 便りを書くにも行く先を知らず どの街、どの村、どの屋根の下、おまえは私の心にだけ残っていようというのか。おまえの小さな足あとを やたらと雪がおおいつくし あとを追う術とてもはやない。雪が溶ければ 残った足あとにも花が咲こう。花ばなの間をたどっていけば、一年十二か月 いつまでもいつまでも私の心には雪が降るだろう。                                                               (「雪降る地図」)

 

 故郷を去ってゆくひとりの少女の姿をいとおしむように描き出した作品だ。春に咲く花ばなを幻視する一瞬をさしはさみながら、雪が静かに降り続いている。順伊はなぜ旅立っていかねばならないのか。「発っていくまえに言っておくこと」はなんだったのか。さまざまに問いを投げかけながら、何かを失った心を閉ざすかのように、いつまでも降り続く雪……。やさしい言葉で記された悲しみが、その悲しみをもたらしたものの所在を感じさせ、「失くした歴史のように ふらりと行ってしまった」順伊の姿を深く心に刻まずにはいられない。

 

死ぬ日まで天を仰ぎ/一転の恥じ入ることもないことを、/葉あいにおきる風にさえ/私は思い煩った。/星を歌う心で/すべての絶え入るものをいとおしまねば/そして私に与えられた道を/歩いていかねば/今夜も星が 風にかすれて泣いている。                                   (「序詩」)

 

尹東柱がみずからの一生をあらかじめ描きつくしたような作品である。彼は「すべての絶え入るものをいとおしまねば」という言葉で何を思い、何を決意していたのか。「すべての絶え入るもの」(“모든 죽어가는 것” 直訳は「すべて死にゆくもの」)とは、詩人尹東柱にとって何よりも、使用を禁じられ葬り去られようとしている母語であったろう。そして母語をいとおしむとは、あくまでも朝鮮語によって詩を書き続けることにほかならなかった。それも、声高に独立や民族の誇りを叫ぶスローガンのような詩ではなく、静かで美しく、それでいて植民地期の青年の実存に深く根差した作品であらねばならなかった。

 

灯りをつよめて 暗がりを少し押しやり、

時代のようにくるであろう朝を待つ 最後の私、               (「たやすく書かれた詩」)

 

尹東柱は1945年2月16日、服役中の福岡刑務所で非業の死を遂げる。彼に負わされた罪名は「治安維持法第5条」違反であった。同法第5条とは、具体的な独立運動の実体をもたない言動を「国体の変革」の容疑で取り締まることを可能にするものであった。逮捕・拘留中の尹東柱が取調室で自作の詩と散文を日本語に訳させられている場面を目撃した叔父尹永春の証言は、朝鮮語による創作行為そのものを治安維持法違反の名の下に取り締まろうとする、権力の凶悪さを垣間見せるものであろう。しかし、それは、逆説的にだが、尹東柱の作品が日本による植民地支配に深くかかわり、その本質を鋭くつくものであったことの証左ともいえる。抹殺されつつあった祖国の言葉を守り抜こうと奮闘した朝鮮語学会の活動と、尹東柱の孤独な営みは遠く響きあっている。彼の美しい作品のひとつひとつが、ラディカルな抵抗の意志そのものであった。

日本人が尹東柱の作品を読む意味とはなんだろう。

日本による植民地支配を生きたひとりの若者の心に寄り添い、その心情の襞に沿って私たちの罪深い歴史の実相を心で感じることの意義は、もちろん軽くはない。しかし、わたしたちの大部分は日本語を通して彼の作品を読み、彼を知ろうとする。尹東柱母語を守るために抗わねばならなかった帝国の言語こそが彼に近づくか細い道となっているのだ。尹東柱自身は、彼の作品を後世の日本人が日本語で読むことをほんの少しでも想像することがあっただろうか。そしてそれを望んだだろうか。

かくして私たちは矛盾を抱え込みながら尹東柱を読み、読みながらつねに自らの矛盾に立ち戻らざるをえない。だが、それにしても、わたしたちは彼の作品に心惹かれ、「素直に」感動しさえする。それほどまでに尹東柱の作品は奥深く、むろん訳者の努力のたまものでもあろうが、訳された日本語すら美しい。

それを文学の普遍性と言い切ってしまってよいものかどうかはわからない。日本人が尹東柱の詩作品に感動すると言う現象があり、韓国や朝鮮で深く愛される詩人であるという事実があり、中国でもまた評価されるという現実からすれば、間島に生まれ日本で生を終えたひとりのディアスポラの一生とその生み出した言葉の数々が、歴史を共にするはずの東アジアに生きる人々の共感を呼び寄せる可能性を持っているとは言えるのだろう。その可能性が、かつての支配者の言語の相貌をやさしく改めさせてくれているのかもしれない。 

1950年6月25日朝鮮戦争勃発

 

1950年6月25日未明、朝鮮民主主義人民共和国軍(以後共和国軍)が38度線を越え南進を開始、これにより3年1か月に及ぶ朝鮮戦争の火ぶたが切って落とされた。大韓民国軍(以後韓国軍)に比して強大な軍事力を有する共和国軍は、「南朝鮮の解放と祖国統一」を標榜し、瞬くうちに釜山橋頭堡まで韓国軍を追い詰めた。

しかし、9月15日、国連軍総司令官マッカーサーの指揮による仁川上陸作戦で戦況は一変、国連軍はソウルを奪還し、兵站線を断たれた共和国軍は敗走を余儀なくされた。やがて国連軍は38度線を越えて北上し、元山、平壌を占領、中朝国境の鴨緑江に迫る勢いを見せ、李承晩大統領が統一政策を追求する可能性さえ浮上した。

だが11月、戦況は、中国人民志願軍(以後中共軍)の参戦を以って再び反転する。中共軍の援助に力を得た共和国軍は、撤退する国連軍を追って、再び38度線を越え南進した。制空権を持つ国連軍が、空中攻撃で共産軍の補給路を阻み、攻勢に出ることで、戦況は膠着状態へ陥った。

この間、原爆の使用も辞さずと強硬姿勢を取るマッカーサーと、休戦交渉をも視野に入れ始めたトルーマン大統領との間の摩擦が表面化し、マッカーサー解任を経て、休戦交渉が始まったが、軍事境界線の策定と捕虜送還問題で難航、アイゼンハワー大統領の誕生とスターリンの死を経て、1953年7月27日、共和国軍最高司令官金日成、中国人民志願軍司令官彭徳懐、国連軍総司令官クラークが署名し、ようやく休戦協定が成立した。李承晩は署名を拒否した。

南北朝鮮全域を戦場としたこの戦争により、共和国も韓国も甚大な物的・人的損失を被った。また、戦争の結果、南北両体制の政治的・イデオロギー的硬直化が進み、冷戦構造が深化した。離散家族など現在まで継続する問題も多い。

在日朝鮮人・韓国人社会にも、この戦争は濃い影を落とし、在日義勇兵や、吹田・枚方闘争など戦争阻止のための闘いも組織された。

国連軍の兵站基地として機能した日本もまた、元山などでの掃海作業に加わった日本特別掃海隊の存在も含め、この戦争に深くかかわった。

かつて植民地として支配した隣国での熾烈な戦争を尻目に、平和憲法を手にし、独立を謳歌する日本は、「戦争特需」によって経済復興の礎を築くことに成功した。戦後日本のありようを決定したこの歴史のアイロニーの意味を、戦争勃発から70年目に当たる今日まで、日本人は噛みしめることがあっただろうか。

『海の底から』

大作『火山島』の続編、正しくは続々編か。舞台は日本。『火山島』全7巻の結末を受けて、物語が始まる……いや、始まらない。物語は始まらない。なぜ、始まらないのか? 主人公不在のせいだ。主人公李芳根の不在。『火山島』全編の主人公であった李芳根の自死が『海の底から』の起点であった。

李芳根とは誰か?解放前、抗日闘争に身を投じた筋金入りの闘士であり、解放後は一転、自室のソファにじっと腰をおろし済州島の動乱を透徹した虚無の視線で凝視しつつも、4・3蜂起崩壊後の虐殺からの生命の救抜を全力で支えようとする人物。オブローモフをすら思わせる彼の虚無が、生への愛に支えられた行為につながる……いや、そうではない。彼は殺人に手を染める。裏切り者、権力側の陰謀者を殺す。殺すことで彼らによる大量殺戮の責任を問い、さらなる殺戮をとどめようとする。これは人が生きることへのこだわり、つまりはやはり愛なのか? それでは、彼の自死の意味は?

際限のない問いの連鎖のなかに、李芳根の不在がある。彼の不在が無限に問われる。南承之が、韓大洋が、李有媛が、それぞれの対話のなかで問いを続ける。李芳根はなぜ死んだのか。不在を問うことで、彼らの心がつながる。現前する李芳根の不在。物語の始まらない所以だ。

「死者は生者のなかに生きる」。生前の李芳根の言葉。この作品のテーマかもしれない。あるいは金石範文学の……。あたかも主題言語のごとくに問い続けられる李芳根の不在。不在という実在。李芳根の自死の意味を、解けない方程式を、担い続ける生者たち。死者が生者のなかに生きるということ、死者を担うことで生者が生者たりうるということ。

しかし登場人物たちは膠着した関係のなかにある。死の一歩手前で李芳根の手によって救い出された南承之。「豚になっても生きろ」と遺言のように託された言葉を、密航した日本で抱きかかえるようにして暮らす日々。背中に刻まれた拷問の跡。その傷跡に涙を流し、彼に情愛を寄せる安幸子との関係。安幸子は『罪と罰』のソーニャだったのだろうか。奈落から逃れた南承之に生きることを肯定させたのは安幸子ではなかったか。そう読むのは果たして的外れか。

「日本に行って有媛に会え」。李芳根から南承之に託されたもうひとつの言葉。李芳根の妹で彼の強い影響下にありながらも自立した存在の李有媛。一旦はパルチザンへの参加を目指すが、旧家の因習による婚姻を兄の尽力で逃れ、現在は音楽学生として日本留学中。その有媛に会え、とは。

李芳根の自死の日、李有媛と南承之は同時に夢を見る。李芳根の死を暗示する、二つに分かたれたひとつの夢。ふたつがひとつになる夢。李有媛と南承之が会うことで、李芳根の死が現前するのだ。死者が生者のなかに生きる。ふたりが語り合うことで徐々にくっきりと李芳根の不在の意味がその輪郭を現す。

李有媛は、南承之にとっての有媛は、もしそういってよければ、思想として存在する。幾たびか李有媛と会うことになる南承之だが、彼は有媛の身体性の前にたじろぐ。李有媛は、そのオッパ、李芳根の思想をともに委ねられた存在としてあるのだ。少なくともこの日本の地では……。有媛は理念化されてしかるべきなのだ。しかし、思想とは何か。それが経験世界にある自分を生かしてくれるものである以上、南承之のたじろぎは、それが有媛への敬愛の表れであるゆえに、思想を思想たらしめる一歩前の地点に彼自身を留め続ける。

だが、南承之が踏み出すべき一歩とは何か。有媛への、有媛との感情を成就させることか。そうではない。幸子とのあいだに取り交わされた男女の情は、有媛には向かわない。向かい得ない。踏み出すべき一歩は、夢を、二つに割れた夢をどう合わせるか、ということである。どう……? どうやって……? 答えはわからない。わからないが、それが李芳根を自らのうちに生かすことでなければならないことだけははっきりしている。そして、それを有媛に向かって語りうるものとし、また語らなければならないということも。

はっきりしているものが見つからないというジレンマの中に立ち尽くす南承之。物語はまだ始まらない。

韓大洋は、済州島の李芳根の自死の現場、山泉壇を訪れ、いち早くその死の意味を体感する。漢拏山の山霊への供犠。かつてシンガポールチャンギ刑務所に戦犯として服役、「奇跡の生還」をはたした韓大洋は、李芳根の遺志を受け、済州島パルチザンの島外脱出の仕事を続ける。それが彼の「革命」형명である。李有媛も南承之も韓大洋の舟で日本に渡った。

やがて、南承之に韓大洋からミッションが託される。対馬島대마도へ行き、密航者二人を迎える。死線を越えた元パルチザン若い女性二人を。金石範の文学作品で一度ならず繰り返されたモチーフである。列車で大阪から博多、博多から対馬厳原への船旅。南承之自身もまた死の淵を逃れた道筋を逆にたどる旅。

南承之が「行為」を、踏み出すべき一歩を見出す。単に韓大洋への手助けというのでなく、それは李芳根の思想に自分をつなげることのできる確かな「行為」なのだ。この「行為」においては、もはや南承之が「主人公」でなければならない。主題を胚胎した行為者。主人公を得て、物語が動き始める。文体が変わる。

あえて断章化され無機的ですらあった言葉。渦巻くように浮遊して、読者の思い入れを回避するように書かれていた言葉が変わる。密航者と南承之が息をひそめて一夜を過ごした小屋での闇と光の交錯。玄界灘に投じられる椿の花の、遠ざかる船から見る鮮やかな色彩。南承之の視点が過たない描写の源泉となっている。読者も、南承之の視線に意識を寄り添わせ、この作品の最後の旅程を共にすることができるのだ。

帰路、いや女性二人にはもはや引き返すことのできない往路だが、その行きつく先は大阪대방の猪飼野である。南承之の母어머니が待つ街へ。済州島からのはるかな旅路。生還の旅。

 アイゴ、よくぞ来たものだ。生きてよくぞやって来たよ。アイゴ、生きました、生きました、生きのびました、オモニ!

 母と正恵が抱擁し、正恵が母の胸に子どものように顔を埋めて泣き出した。康娟珠と茉順も抱き合っていた。よく来られました、よくぞ来られました。頬を合わすように、そして合わせて泣いていた。

 南承之は呆然として軀がなかば宙に浮いたような感じでその場に突っ立ていた。

 ありがたい涙が止まりません。チェジュでは悲しみも喜びも、そのような場所も時間もありません。ただ胸に手を当ててそっと息を確かめるのが、生きていることです。生きているから、涙が出る。こうして生きているから涙が出るんだよ。

 ヨンジュは泣いているのか?洟をすすっただけ・・・・・・。そう、ヨンジュがどれだけ強い女か。砂漠のような悲しみ。そう、砂漠のような心に涙があるか。私たちの涙は凍りついて出てこないでしょう。ヨンジュもジョンへも泣いている。これがオアシスの涙か。アイゴ、よくぞ生きて来たものだ。生きてよくぞやって来た。泣け、泣きなさい。涙が止まるまで泣くがよい。泣くだけ泣け。泣けないときまで泣け。

 この長編の結末部分。もはや、言葉は、しゃくりあげるような嗚咽とあふれる涙と共に、誰の言葉であるとも分かたれることなく、南承之の心をも包み込んだひとつの声として響いてくる。その声のかなたに、玄界灘に投じられた鎮魂の椿の花の色がくっきりと見える。「死者は生者のなかに生きる」。

 

七サバ詣で

横浜市藤沢市のあいだを流れる境川の両岸に、サバ神社という変わった名を持つ社が点在しています。鯖・佐波・左馬・左婆と漢字表記はまちまちですが、藤沢市横浜市泉区・同瀬谷区大和市などにわたって十数座の所在が確認されています。柳田國男はその著『石神問答』のなかでサバ神社を取り上げ、境界神もしくは障礙神としての性格を見出しています。

そもそも境川とは、相模國の旧鎌倉郡高座郡の境を流れる川であることに由来する名称です。かつてこの川には橋をかけなかったとか、両岸の村落どうしで石合戦をしたとかいう話を聞いたことがあります。高座はもとタカクラと訓じたようで、実際にこの地域には高倉という地名も残っています。タカクラは高句麗との関係を想起させる響きです。あるいは、古代、朝鮮半島から渡来した人々の入植地であったのかもしれません。ことほどさように境川には、歴史のなかの境界性が幾重にも重層しているように思われます。また、境川の境界性はこの世とあの世を画するという性格も持つようです。私は十数年ほど前にこの川に卒塔婆が流れているのを見たことがあります。

境川は、古来たびたび氾濫を繰り返してきた暴れ川としても知られます。氾濫のたびに川筋が変わり、現在の境川の両岸に共通の地名が残っているのもその痕跡といってよいでしょう。河川の氾濫は一方で肥沃な土壌をもたらす効能もありますが、氾濫の後に疫病をもたらしたりもしたと思われます。障礙神としてのサバ神社に防疫の霊能があるのも、おそらくそうしたこの地域の特性によるものでしょう。

ところで悪疫退散の霊験あらたかな神様と言えば、八坂社・天王社などが真っ先に浮かびますが、祭神はスサノオとされることが多いようです。古事記に描かれるスサノオの行状は、乱暴狼藉の限りを尽くす共同体秩序の侵犯者にほかなりません。その悪のパワーをもって、共同体の成員にたたりをなす悪疫をうちまかそうというのですから、私たちの祖先の信仰というものは実におもしろいかぎりです。悪に強いものは善にもつよいとでも言うのでしょうか。体制外の力でもって危機を乗り切ろうとするしたたかさが見て取れます。暴力=ゲバルトの両義性なんてテーマを論じてみたくもなります。

サバ神社のなかには、源義朝を祀るものがいくつかあります。これはおそらくサバ=左馬の連想が、左馬頭であった義朝を思い起こさせるからかと思いますが、平治の乱で悲劇的な最期を遂げる義朝は、関東の地で勢力を蓄えるにあたって荘園への濫行をかなり働いていたらしいので、やはり彼にも侵犯のエネルギーをもつイメージが付きまとっていたのでしょう。ところで、不思議なことに泉区のサバ神社は、義朝のご先祖にあたる源満仲を祭神としています。その理由はつかみかねています。幸若舞曲「満仲」などの芸能と何らかの関係があると面白いのですが……。

話は飛びますが、このコロナ禍の最中に、靖国神社にお参りした政治家がいるということを耳にしましたけれど、あれはダメですね。賊軍を祀らない靖国神社に悪のパワーは期待できないでしょう。防疫の霊験を同神社が公言しているのか、どうか、定かではありませんが、私たちのご先祖さまの信仰に忠実に考える限り、どうもこれもお門違いのパフォーマンスだったようです。アベノマスクと同じですね。

閑話休題(それはさておき)

サバ神社に話を戻すと、昔からこの地域に、はやり病除けの「七サバまいり」という風習がありました。疫病が流行すると七つのサバ神社にお参りして、厄除けを願うのです。十数座のサバ神社のうちどの七つを選ぶかは諸説あるようですが、境川の右岸・左岸の地域でそれぞれ決まっていたのかもしれません。できるだけ近くにある神社に足を運んだというのが実状だったのではないでしょうか。

とまあ、ずいぶん話が長くなりましたが、私もこの5月27日、「七サバまいり」にチャレンジしてみました。移動手段はわが「健脚」。17キロほどの行程でした。境川をまたいで右往左往しながら七座を巡り、コロナ終息と孫たちの健康を祈ってまいりました。そのご報告はまた稿を改めて……。

 

 

杜門不出。時間にだけは恵まれて、読書三昧の日々。日頃の積読の罪滅ぼしのようにひたすら本を読む。古書店古書市で見つけてきたかけがえのない──と自分だけは思っている──本たちである。

人との出会いは削減されたが、その分、いやそれ以上に数多くの言葉と出会う。どうもそれが性に合っている。付箋を施して、えにしのありそうな言葉に挨拶する。ほう、こんな言葉があったのかと、頷いたり首を傾げたりしながら、人知れずほくそ笑むこともある。向こうの方でこちらを気に入ってくれるかどうかは沙汰の限りではない。それでもこちらには昵懇の間柄の言葉が増えていくのが喜ばしい。

しかしなかには、心の居住まいを正せとばかりに、厳しいまなざしを送ってくれる言葉もある。気づきと反省と認識を迫る言葉とでも言おうか。

先日読み終えた森崎和江の『慶州は母の呼び声』のなかにあった一節……。

 

「あの生徒たちは、ひとりでものを思っている時も日本語を使っているだろう」

わたしは大声をあげて泣き出した。父が目がしらをおさえた。わたしの泣き声はなかなかおさまらなかった。

「もう、よし」

父が叱った。

 

 「わたし」は著者本人。「父」は植民地朝鮮で教師として奉職し、請われて校長を務めもした。彼が教育者として良心的であり、またそうあろうとしたことは、当局の不興を買って事実上の左遷を味わったことでも知れる。けれど、身もふたもない言い方をしてしまえば、それでも植民地支配の一端を担う位置にあったことは動かしがたい歴史的事実であった。

 統治機構の瓦解によって、負わされ続けていたものを下ろすことはできただろう。しかし、引き揚げて距離を置いたときに見えてくる植民地教育の罪深さ、とりわけ母国語に換えて日本語とそれによる生活感情、思考の様式などを身につけさせてしまったことの惨酷さ。その場に立っていた自分から逃げ切れない思いを如何ともしがたい……。

 戦後の日本で、この「父」の感情は一切省みられることはなかった。「わたし」の涙は、戦後社会の片隅に置き去りにされている感情への絶望に近い悲しみだ。「もう、よし」と叱るしかない「父」の孤独な実存。

 私たちの戦前への「反省」が儀礼化されて何か肝心なものが欠けているように感じられ、その欠けている隙間を反省とは無縁の意図が埋めてしまうのも、この感情の欠落の故である。他民族の言葉を奪い取ってしまったことへの戦きがほんの少しでもあれば、失われた言葉を取り戻そうとするひとつひとつの努力に敬意を覚えこそすれ、民族教育を抑え込もうとする愚行を許すことなどないはずである。国家や国民の枠組みをはるかに超えてしまったコロナ禍に対し無惨なまでに無力な日本社会は、愚行を許し続けた無自覚さのなれの果ての姿に見える。

 私は飛躍しすぎているだろうか? 私たちが置き去りにしてきたものによって、逆に置き去りにされつつある日本社会という自画像は的外れだろうか? 私はそうは思わない。近代化も、富国強兵のスローガンも、高度経済成長も、新自由主義も、植民地支配に依存し犠牲の構造を正当化するイデオローギーを引っ提げて推し進められた。民衆もまたその参加者であった。挫折を受け止めて反省する好機は処々にあったはずだ。だがそれをしなかった。犠牲の構造を見ようとせず、反省すべき対象を他者として見出すことができなかったからだ。

 「父」の、歯噛みするような思いを感じ取り、共有し社会化するすべはまだあるだろうか? 病膏肓に入るとでも形容するしかない私たちの足元は今、絶望的な状況に見える。それでもまだ可能性を云々できるとすれば、戦後の日本が後生大事に抱え込んできた国民国家主義をも溶解させつつあるコロナ禍の「暴力性」を契機にするしかないのだろうか。

答えを見つけたい。

杜門不出の日々、ふと思い出した故事成語「轍鮒の急」。出典は『荘子』で、こんなお話。

 

…昔、荘子こと荘周さんはいたく貧乏で今日の米にも事欠く暮らし。困った挙句にお金持ちの監河公にわずかなお米を恵んでもらいにいくと、「そのうち大金が手に入るのでそこからゆとりのある暮らしむきがたつよう、融通してあげよう」とのお言葉。すると荘周はこんな話を始めます。

「こないだ私が道を歩いていると、後ろから呼ぶ声がするので、振り返ると轍にたまった水のなかに鮒がいて、口をぱくぱくさせながら私に言うのです。『水をひと掬い持ってきてください。干上がって死にそうです。お願いします』と。私が『この後大きな湖のあるところまで行くことになっているから、着いたら湖の水神に頼んで湖水をいっぱいここに送ってやろう』と言いますと、鮒は色をなしてこう言いました。『私はいまわずかな水で生きながらえたいだけ。そんなことを言っているとそのうち乾物屋の店先で私の姿を見ることになりますぞ』と。」…

 

とまあこんなお話です。ずいぶん昔に読んだので、正しくお伝えできていないかもしれません。正確を期したい方は原典に当たってください。

「轍鮒の急」は「涸轍の鮒」とも言います。

今風に言えば、「生きさせろ!」にほかなりません。